|
大山 妙子(おおやま たえこ) さん 中野第3中学校で全国大会優勝、その後、東亜学園に入学し、高校3年間も常にトップレベルでプレーを続け数々の逸話を残した。1993年にジャパンエナジーに入社し、1年目からスターターに抜擢され新人王を獲得。その後も韓国人コーチ金平鈺(キム・ピョンオク)氏の指導の下、3Pシュートをはじめシュート力をアップさせ日本を代表するディフェンスのスペシャリストとして活躍。チームでは4年連続2冠を達成する等、数々の賞を受賞する。また、2回のオリンピックに出場し一線で活躍。2004年アテネ五輪ではキャプテンを務め五輪を最後に現役引退。2005年よりJOMOクリニック専任コーチとして活動中。現在は全国各地に渡って、バスケットボールの基本や楽しさ等を未来の選手達に伝えている。
身長的には小柄な方なのかしらと思ったのですが、とっても大きくてスポーツマンそのもののナイスバディですね。小さな頃は、どんなお子さんでした?
スポーツ万能でいらしたのですね。ご兄弟の中で一番運動神経もよかったとか? はい。ただ性格的には引っ込み思案でとても人見知り。人の前に出ることも好きではなく。父がそういうタイプで似てしまったんでしょうね。母はおしゃべり大好きなタイプでしたので(笑)。学校の授業でも、先生にあてられたら答えましたが、自分から挙手することはせず。バスケットボールを始めてから性格が少しずつ変わってきました。 バスケットボールを始めるきっかけに、小学生では「ミニバス(ミニバスケットボールの略)」というスポーツがあります。大山さんがバスケを始められたのはいつ頃でしたか? 中学校からなんです。小学6年生の時にミニバスチームには入っていましたが、小学校卒業間近に恩師から「バスケをしに、うちの中学へこないか」と。そこから人生が変わりました。小学6年生で背が160センチありましたから、クラスでも一番大きかったですね。 進学したのは、バスケットに力を入れて指導していた公立中学。私は隣の学区から越境入学という形で、バスケットのために自分の意思で中学を選びました。ただ、越境入学するために、家族一緒に住んでいながら、母と私の分だけ一時、現住所を動かしたり(笑)。今でこそ学校選択制という制度もありますが、当時は学区内の公立中に行くのが普通でしたから、その辺の見極めは母に感謝しています。その学校はバスケットをやりたい人が学区外から集まる学校でしたので、ミニバス仲間も数人いて行きやすかったのですが。 私も中学時代はバスケット部でしたが、いろいろな意味で厳しかったなぁと。大山さんはどんなことが厳しいと感じられました? 背が高かったのでゴール下シュートのポジションを任されました。中学に入ってからは技術的なことを身につけたり、体力をつけることにのめり込んでいきました。人間関係では、中学よりも高校のほうが上下関係がありましたね。練習が嫌だという気持ちは全然ありませんでしたが、全国大会を目指すチームでしたから、練習は厳しかったですね。合宿や遠征も多かったですし。一年生はご飯を3杯食べることが義務付けられていたので(笑)。コートを離れて、うっかり挨拶をしそこねたメンバーがいると全体責任で部室の裏に呼ばれて叱られたり。陰湿ないじめはありませんでしたけれど(笑)。
|
|












とにかく体を動かすのが好きで、おてんばでした。母が体を動かすことをさせてくれたこともあって、小学校時代も体育が一番好きな科目。小学校では6年間週1回スイミングを習っていました。大会に出場したのは6年生の時ですね。区大会で優勝なんてこともありました。勉強はそっちのけで、とにかく運動だけが取り柄で(笑)。2歳上の兄と、6歳下の弟に挟まれて育った影響もあるかもしれません。


