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内部被曝の脅威を説き続ける被曝医師 肥田舜太郎さん

内部被曝の脅威を説き続ける被曝医師 肥田舜太郎さん

内部被曝の脅威を説き続ける被曝医師 肥田舜太郎さん

内部被曝の脅威を説き続ける被曝医師 肥田舜太郎さん

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内部被曝の脅威を説き続ける被曝医師 肥田舜太郎さん

内部被曝の脅威を説き続ける被曝医師 肥田舜太郎さん

肥田舜太郎さんは2017年3月20日にご病気のためご逝去されました。
謹んでご冥福をお祈り致します。この記事は2012年3月に取材致しました。

肥田 舜太郎 (ひだ しゅんたろう)さん

1917年広島市生まれ。1943年、日本大学専門部医学科卒業。1945年8月6日、原爆被爆。直後から被爆者救援・治療にあたり、2009年の引退まで被爆者の診察を続ける。1953年、全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)創立に参加。全日本民医連理事、埼玉民医連会長、埼玉協同病院院長、日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長などを歴任。1975年以降、欧米を中心に計30数カ国を海外遊説、被曝医師として被曝の実相を語りつつ、核兵器廃絶を訴える。アメリカの低線量放射線被曝に関する研究書等を翻訳、普及にも努め、内部被曝の脅威を訴え続ける。
著書に「ヒロシマを生き延びて」(あけび書房)、「内部被曝」(扶桑新書)、共著書に「内部被曝の脅威」(ちくま新書)がある。

医学的な証明ができないだけで「安全」とはいえない

肥田先生には7.11の放射能対策講演会にもご登壇いただきます。その頃、横浜が、日本がどうなっているのか誰にもわからない状況です。でも、福島の原発が何ら収束しておらず、むしろ汚染拡大の一途をたどっている現状で、これから小さな子どもを育てる親は何をすべきか?どういう意識をもたなくてはならないのか?具体的に先生のご体験をもとにお話しいただければと思います。

まず最初に言えるのは、被曝した人がみんな病気になって死ぬのかというと、そうなる人と、何にも起こらない人もいます。ただ、政府や東電や専門家と称する人たちが原発事故直後に「ただちに人体に影響は無い」と繰り返し言ったことには憤りを感じます。「その後、影響が出るかもしれない」「影響が表れる人が出てきます」と言うべきでした。日本は広島、長崎での経験を何もいかせずに福島でもまた繰り返しています。

先生は広島、長崎でたくさんの被爆者を診察されてこられましたが、患者さんはどういう症状だったのですか?

動脈硬化や腎臓機能、肝臓機能をやられたり、ガンという形でダメになることも。医学的に名前を付ければそうなのですが、手の施しようがない。皆が苦しみの果て死ぬ時に言うのは「先生、私はなぜ死ぬのですか?」と原因を知りたがるわけです。原爆の日は広島にいなかったにも関わらず、原爆が落とされた後に焼け野原になった街で家族のことを方々探しまわった人が多い。しかしその時、そこに高い放射線があることは誰も知らなかった。何が起こっているのかわからない状態で、身体が蝕まれていったのです。ところがそうした病状を書いたり伝えたりすることを占領軍はアメリカの軍事機密として許しませんでした。

アメリカが広島、長崎でその後起こった被曝症状を克明に残されるのを恐れたのは、なぜでしたか?

当時のロシアに核兵器の秘密を知られるを防ぐことと、欧州の国民に放射線が平和になってからも人間を殺し続けることを知られたくなかったからです。医者にもデータを遺させなかった。原爆を落とされてから4年後にABCCというアメリカの医療機関ができました。見た目は病院で被爆者は集められました。入口で「あなたはどこで被曝にあったか?」と聞かれます。爆心地から何キロのどこにどういう状態でいて被曝したのか、克明に記録されました。しかしその日のその時間帯に被曝地にいなかった人は「お帰りください」と言われ皆診察はしてもらえませんでした。つまり最初から内部被曝を問題にしておらず、直接戦場で原爆を使った場合、その影響を受けた人間がどうなるか?それを調査するための機関だったのです。

それだけでも恐ろしい計画ですが、実は原爆を落とすにあたってはもっと恐ろしい戦略があったと先生は言われていますね?

原爆を落とすまでにアメリカ軍は3年前から入念な準備をしていたのです。広島を選んだのは一番モルモットにしやすいからでした。毎日時間を変えて飛行機を飛ばして上空から撮影し、一番人が屋外に出てくる時間帯は午前8時15分と推定された。放射線が直接掛かる人間が最も多い状態を狙ったのです。放射線の影響がどうなるかを知りたいわけですから。アメリカの軍とイギリスのチャーチルとの会談ですべてそうした記録が残っています。

岐阜の連隊に召集された頃25歳の肥田氏(1942年)

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